生涯剣道

中西 保三先生

第13回は中西先生にお願いしました。
中西先生は剣道だけでなく、居合道もされている先生です。ご本人は大学に入学されてから剣道を始められたそうですが、お父さんが剣道、居合道、杖道の三道で範士になられたというすごい先生でしたので、そのお父さんの下での稽古は厳しいものがあったようです。そんなお父さんからの教えについても書いていただきました。

1.剣道を始められたのは何歳の時ですか?またその動機はなんでしたか?

初めて竹刀を握ったのは大学入学と同時期の18歳です。実は父が厳格というか極めて厳しい人で、何時も怖くて逃げ回っていた。というのが当時は正直な気持ちです。
それまではサッカーか野球でもやりたいなーといった感じで、剣道には殆ど興味はもっていませんでした。自分でも不思議なのですが大学入学してからのクラブ勧誘時、何故か剣道部に署名をしていました。やはり今思うと気持ちのどこかで「父の後を継ぎたい」と思っていたのだと思います。
その後父に「剣道やることにしたよ」と言ったら、満面の笑みを浮かべて「そうか」と大変喜んでくれたことを昨日のことのように覚えています。

2.その頃の稽古法や稽古内容を教えてください。

今まで父の口から「剣道をやれ」と一言も発しなかったにもかかわらず、大学の夏、冬、春の休みには帰省して早朝より毎日剣道、居合道、杖道の三道を一挙に教わる羽目となったしだいです。軽々に剣道部に入部したことを後悔したのは云うまでもありません。
右肘腱鞘炎、左膝炎症等々、必死に指導してくれる父に「痛いんだけど」などと弱音など言える状態ではなく、夕方には郷里の警察署や日立、三菱といった地元企業の道場に父の車に同乗し出稽古に行ったものです。
夕食後は先生方の含蓄有る手紙等、当時の私に懇切丁寧に話してもくれました。今から思うと殆どその当時は理解していなかったと思います。そのころから父との溝は一気に埋まり、会話も多くなっていきました。
その後社会人になり全国を転勤していた時も「愚息をよろしくお願いします」と名刺の裏に書いてもらい、各県の最高位の先生方に稽古をお願い頂く事が出来ました。稽古の後はきまって「お父さんは立派な剣道だけどね」といわれたものです。当時はまだ五段で本当の剣道を理解していなかったし、その当時の父の言葉が今頃になって理解できるのです。

3.剣道をやめたいと思われた時期はありましたか?

やはり一般の方より遅く始めた為か『辞めたい』と思ったことはありませんでした。むしろ社会人になってゴルフやスキー、磯釣り、そして深夜酒等様々なスポーツや遊びを嗜みましたが、全国各地の最高位の先生に最初に挨拶をしている関係上、剣道だけは週一程度ではありましたが続けていました。
年に一度の正月に広島の実家に家族で帰省し、父やその弟子の先生達と稽古をするのが恒例行事となり、いつしか私もそれを楽しみに欠かさず家族と帰省するようになりました。
稽古後は「左手を動かすな」「足が広い」「あそこは我慢のとこだ何故打っていく」「打ちが軽い」「構えに迫ってくるものがない」等々孫は褒めても私は褒められたことは記憶に殆どありませんでした。
おまけに自宅が道場の為、私の掛け声を台所で聞いていた母までも「あんな軽いうわずった掛け声で強い剣道家は見たことがない」と手厳しい。やはり強くなりたい、本物の剣道を目指したいと思い始めたのもこのころです。

4.忘れられない一本はありますか。

大学から一から始めた関係で、試合は専ら応援専門でした。従って私にとって忘れられない一本などという高尚な技(試合)など残念ながら記憶に無いのです。有るとすれば大学3年か4年生になった時だったと思います。最後のご褒美で名門中央大学との試合に中堅で出させていただきました。
先方の中堅は上段でしたが、素人の私は訳も分からず突きに突きまくって、相手に打突のチャンスを与えず引き分けました。結局我がチームは私以外4人全て二ゼロ負けでした。後で指導している師範に、あれだけ突きが出るのなら何故「突きから面に乗っていかないんだ」と。

5.恩師と慕う先生はどのような先生ですか。

大学の師範だった杉並剣道連盟の大橋幸蔵先生は本当に尊敬できる立派な先生でした。先生は“昭和の武蔵”と言われた中村太郎師範の後任で、作家井上靖とも交流があり、大学の剣道小冊子などの投稿では何時も流石という文章を書かれておりました。ただ師範は立派でも教わる方の私が全くの素人であった為、当時理解力に欠けていたのが今更ながら残念に思います。
やはり強くそして長きにわたり影響を受けたのは私の父親である『中西康』ですかね。父は大正11年(1922)生まれですが、当時不治の病と言われた結核、腸チフィス、甲状腺がん等様々な病魔と闘いながら77歳7ヵ月でこの世を去りました。
その間、民間人でありながら戦前の中山博道以来二人目となる三道(剣道九・居合道八・杖道八)範士号を戴いています。結核(四十代)は二回の手術で背中の肋骨六本切断と長期療養、甲状腺がん(発病65歳)は合計七回の摘出手術と三回の放射線治療等、普通では気力はなえ諦めるところ。強靭な精神力で飽くなき挑戦を続ける父の後姿こそ、私は強く影響を受けたと云っても過言ではありません。
父は多くの師と友人に恵まれ、その先生方の影響を強く受けています。父は旧制岩国中学から国士舘専門学校へ入学し、斎村五郎、岡野亦一、小野十生、小川忠太郎、小城満睦、堀口清等の立派な先生方に師事したお蔭で今の自分がある。と常々口にしていました。そして私にもよくその先生方の含蓄有る話や手紙を、解りやすく聞かせてくれたものです。

6.稽古の中で特に工夫されていることを教えてください。

“相手の心に響く剣道を目指せ”
父が私に一貫して言っていたのは「正攻法で攻めなさい、剣道も仕事も全て同じこと、そして正しい剣道を心掛ければ必ず立派な人間になれる。フェイントや脅かしで勝負に勝っても何の意味も無い、相手の心に響く剣道を目指しなさい。自分がたとえ立派な打ちを出し有効打突だと思っていても、それが相手の心に響かなければ意味が無い、自己満足に過ぎない。ましてや自分の打ちが当たっただろう!とばかり相手に誇示したり要求して、自ら稽古を中断するのは愚の骨頂・言語道断である。当たっても当たらなくても打突後は常に相手の咽喉部に剣先を付け、直ちに対峙する姿勢が必要である。苦しいがその様な稽古を続けていれば必ず上達する」と。それは父が私に常々剣道に取り組む姿勢として諭し続けた言葉です。

また父からの助言として日頃注意していることは→中段の構えが安定しているか。立ち姿が、前後左右から見て美しさと強さを感じさせること。両肩は富士の裾野のごとくなめらかに下がり、自然体で気が下丹田に収まり、左手を通して剣先が中心を攻めているか。
攻め方としては→相手にいかに反応させるかが攻め。触刃の間合(互いの剣先が触れるか触れないかの間)で気で攻め合い、自然に丹田から気合いが出るよう努める。
力が拮抗していればなかなか入れないが、そこから練りながら交刃(互いの剣先が交わっている間合)の間合に入る。ここは生死の間合で一番大事なところ。ここで無理矢理入れば危険、逆にくれば捌くか間合いを取る。どんなことがあっても下がってはいけないところ。邪念が沸いたり気が弱くなったら乗られてしまう。明鏡止水の心境で我慢するところ。「気当たり」で相手の動揺を誘うよう心掛け、動揺が見えれば「石火の機」で打ちをだす。このように出来たらいいなあ!

7.「座右の銘」を教えてください。

『生涯練磨』
私がまだ二十代の若造のころ秋田に転勤し、居合道の指導を受けていた浅利先生という人が使っていた座右の銘です。何となくカッコ良いな~と思い「先生これ私も使わせていただいて良いですか」。それ以来これを座右の銘とし、辛い時や、気分が緩んだり、落ち込んだ時等はこの言葉を思い出すようにしています。世の中“立派な人間”と言われる人は、いかなる境遇においても自分を生涯磨いている。やはり人間何事も死ぬまで修行だと思っています。

8.剣道関連の好きな本をご紹介ください。

新渡戸稲造『武士道』
アメリカ大統領ルーズベルトが、この本を読んで日本に感銘を受けたといわれ、世界中で読まれている名著ですから是非子供達にも読み聞かせてやりたいですね。修練の度合いに応じて読むと理解も深まると思います。

宮本武蔵『五輪書』
勝つ為、生きる為、義とは等これも世界中で読まれています。

大人になってからは森島健男『神の心 剣の心』はお勧めです。
小川忠太郎先生等がお話になった多くの貴重なお話も集約されております。また高野佐三郎『剣道』は剣道の目的を明らかにし、修行に必要な技術や心得など修行によって得られる身体的及び精神効果などを説いた貴重な教本です。

9.最後に今の調布の子供たちにメッセージをお願いします。

小学生、中学生の時期は徹底的に切り返しと掛り稽古を率先して行い、基礎体力と俊敏性を身に着けることが最も大事ではないかと思っています。以前父に「八段は何故あんなに合格しないのか」と問うたとき「切り返しと掛り稽古が足りないからだ、儂が国士舘のころは試合などなく切り返しと掛り稽古しか記憶にない」と。
また調布剣連の堀江先生も「まともな切り返しが出来るのは鱒沢だけだ」と。残念ながら鍛える時期に鍛えておかないと、大人になってからでは通用しないのではないか。幼少期にこそ鍛え込むことがいかに大事なことかが今頃理解できるのです。幼少期に試合で一喜一憂するよりも、むしろ単調で最も苦しい切り返しと掛り稽古を率先して、そして誰よりも多く行った子供達が大人になって必ず大成する。私はそのように確信しています。